20世紀の半ばには分子生物学が興隆した。分子生物学は遺伝子の化学的性質を明らかにし、DNAの配列とそれらが持つ遺伝的暗号の関連を解明する道を拓いた。特にタンパク質電気泳動やプロテインシーケンスなどの強力な技術の発展が進んだ。1960年代初頭に生化学者ライナス・ポーリングとエミール・ズッカーカンドルは分子時計説を提唱した。二つの種の相同なタンパク質の配列の差異は、二つの種が分化してからの時間を示しているかも知れない。1969年までに木村資生やそのほかの分子生物学者は分子時計の理論的な基礎を確立した。そして、少なくとも分子レベルでは、大部分の突然変異は有害でもなく役に立ちもせず、遺伝的浮動は自然選択よりも遺伝子頻度の変動に重要な役割を果たすと主張した。またこの分野は集団遺伝学に分子データの利用をもたらした。
1960年代初頭から、分子生物学は進化生物学の伝統的な視点に対する脅威と見なされた。指導的な進化生物学者、特にエルンスト・マイヤー、テオドシウス・ドブジャンスキー、G.G.シンプソンらは分子的なアプローチが、特に自然選択との関わりについて(あるいは関わらないことについて)非常に懐疑的だった。分子時計と中立説は非常に論争的で、浮動と選択の相対的重要性に関する議論は1980年代まで続いた。
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伝統的な総合説では、生物の進化は偶然に生じる突然変異に委ねられており、自然選択は有利な突然変異が生じなければ意味をなさない。このことに納得できない研究者が、生物自身が進化の方向を決めているはずだという説を出すことが再三あった。特に、長い期間の変化を追う古生物学者などにその例が多い。そのような考えをネオ・ラマルキズムと言う。
ネオラマルキズムは獲得形質の遺伝を進化の最も重要なメカニズムと見なし、ダーウィンを批判したイギリスの作家サミュエル・バトラーや、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル、アメリカの古生物学者エドワード・コープらに支持された。獲得形質の遺伝はヘッケルの反復説の一部であった。ネオラマルキズムの批判者、例えばアルフレッド・ウォレスとアウグスト・ヴァイスマンは獲得形質の遺伝の強固な証拠が一度も提示されていないと指摘した。この批判にもかかわらず、獲得形質の遺伝は19世紀後半から20世紀序盤でもっとも人気のある説のままだった。
定向進化説を唱えたアイマーがこの代表である。彼は化石の記録を見て、生物に内在する力が原因で、適応的かどうかとは無関係に一定方向に進化が起こると主張した。今西錦司の進化論にもその傾向がある。ただし後述の通り、最近の研究には今西やアイマーが予言していたと思えるような報告がされるようになっている。[要出典]
アウグスト・ヴァイスマンは、19世紀後半に生殖細胞と体細胞を分け、次世代に形質を遺伝させることができるのは生殖細胞だけで、体細胞が獲得した形質は遺伝しないと主張し、獲得形質の遺伝を唱えるネオ・ラマルキズムを批判した。また、分子遺伝学的知識からも、こうした説は否定されている。
1930年代に確立された集団遺伝学は、生物測定学とメンデル遺伝学の間の不一致、連続的形質と不連続な遺伝子という問題を一貫して説明可能であることを示した。また遺伝子頻度の変化を進化と考え、その要因の説明に努力が注がれた。
ロナルド・フィッシャーは生物統計学の統計手法と遺伝学を結び付けた。J.B.S.ホールデンは実際に野外で自然選択が働いていることを認めた。シーウォル・ライトは遺伝的浮動と適応景観の概念を提唱し、小集団における選択、浮動の効果を調べた。エルンスト・マイヤーは種分化のメカニズムを解明し、多くの種分化は地理的に隔離された個体群で起きると主張した。
こうした新たな学問分野の確立や研究の進展によって、ダーウィンの自然選択説を基本にしつつ、集団遺伝学、系統分類学、古生物学、生物地理学、生態学などの成果を取り入れて生物の形質の進化を説明することが主流になった。これを総合説(ネオダーウィニズム)と呼ぶ。
総合説に関わった生物学者は多く、唱えた説は少しずつ異なる。総合説を批判する論者は、総合説の中の特定の意見を総合説と見なして批判していることが多い。
1930年代に確立された集団遺伝学は、生物測定学とメンデル遺伝学の間の不一致、連続的形質と不連続な遺伝子という問題を一貫して説明可能であることを示した。また遺伝子頻度の変化を進化と考え、その要因の説明に努力が注がれた。
ロナルド・フィッシャーは生物統計学の統計手法と遺伝学を結び付けた。
J.B.S.ホールデンは実際に野外で自然選択が働いていることを認めた。
シーウォル・ライトは遺伝的浮動と適応景観の概念を提唱し、小集団における選択、浮動の効果を調べた。エルンスト・マイヤーは種分化のメカニズムを解明し、多くの種分化は地理的に隔離された個体群で起きると主張した。
こうした新たな学問分野の確立や研究の進展によって、ダーウィンの自然選択説を基本にしつつ、集団遺伝学、系統分類学、古生物学、生物地理学、生態学などの成果を取り入れて生物の形質の進化を説明することが主流になった。
これを総合説(ネオダーウィニズム)と呼ぶ。
総合説に関わった生物学者は多く、唱えた説は少しずつ異なる。
総合説を批判する論者は、総合説の中の特定の意見を総合説と見なして批判していることが多い。
1865年に発表されたメンデルの法則は、当時は重要性が全く理解されなかったが、1900年に再発見されて広い支持を得た。メンデルの遺伝子に関する説では、遺伝子は親の生活とは何の関係もなく全く変化せずに子孫に受け渡されるため、進化を否定する理論と考えられた。
突然変異は、ド・フリースによって発見された。これによって遺伝学からも遺伝子に変化を生じる可能性、つまり進化の可能性が認められた。しかしド・フリースは自然選択とは無関係に突然変異によって新しい種が生じ、生じた種の間に自然選択が起こるという跳躍説の一種である突然変異説を提唱した。
この発見は種内の個体の量的形質とその統計に関心を持っていたピアソン、ウェルドンに代表される生物測定学者と、ド・フリース、ベイトソンに代表される不連続的な変異を重視するメンデル派遺伝学者の間に激しい対立を引き起こした。
T.H.モーガンは突然変異説を確かめようとキイロショウジョウバエで実験を行った。モーガンの研究は染色体説の提唱に繋がると同時に、突然変異が直接に新種を生み出すことはまずないと考えられるようになった。そして個体に遺伝的変化を生じさせ、自然選択が働く遺伝的多様性を増加させる原因であることが判明した。
跳躍説は新しい種が大きな突然変異の結果として出現するという考えである。ダーウィンの強力な支援者であったトマス・ハクスリーも「自然は飛躍しない」というダーウィンの主張に疑問を呈し、跳躍的な進化を先験的に排除すべきではないと考えた。
アーガイル公など当時の進化論の支持者の多くも跳躍説を支持した。
ユーゴー・ド・フリース、ウィリアム・ベイトソン、そしてトーマス・ハント・モーガンも経歴の初期には跳躍論者だった。これは突然変異説発見の基盤となった。
定向進化説はより完全な方向に向かって直線的に生物が進化するという概念である。この考えも19世紀にはかなりの支持者がおり、アメリカの古生物学者ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンがその代表である。定向進化説は特に古生物学者の間で人気があり、彼らは20世紀半ばまで化石記録が段階的で安定した方向性を示していると考えていた。
有神論的進化論は神が生物の進化に介入したと考えた。これはアメリカでダーウィンを強く支持した植物学者エイサ・グレイによって広められた。しかしこの考えは、当時、学問的に非生産的とみなされ、1900年ごろには議論されなくなった。
ダーウィンの進化理論は多くの批判・反論を受けたが、多くの支持も得て次第に影響を広げていった。この影響はその後、自然科学の枠外にまで広がった。しかし進化を駆動する原因として自然選択説の承認は時間がかかった。ジュリアン・ハクスリーはこの時期を「ダーウィンの黄昏」と呼んだ。19世紀後半以降、自然選択説の代替理論として有力視された代表的なものは有神論的進化論、ネオラマルキズム、定向進化説、跳躍説である。
チャールズ・ダーウィンは、1831年から1836年にかけてビーグル号で地球一周する航海をおこなった。航海中に各地の動物相や植物相の違いから種の不変性に疑問を感じ、ライエルの『地質学原理』を読んだ。そして地層と同様、動植物にも変化があり、大陸の変化によって新しい生息地が出来、動物がその変化に適応したのではないかと思った。1838年にマルサスの『人口論』を読み自然選択説を思いついたと自伝には書かれている。ハトの品種改良についての研究でさらに考えがまとまっていった。
1858年にアルフレッド・ウォレスがダーウィンに送った手紙に自然選択説と同様の理論が書かれていたことに驚き、自然選択による進化理論を共同で発表したダーウィンはさらに執筆中であった『自然選択』と題された大著の要約をまとめ、1859年11月24日に『種の起源』として出版した。
『種の起源』のなかでは、現在の「進化」を指す用語として、あらかじめ内在的に用意された構造の展開出現を意味する"evolution"ではなく、「変更を伴う由来」(Descent with modification)という語を使っている(evolutionの原義については下の項目を参照のこと)。また自然選択(natural selection)、存在し続けるための努力(struggle for existence、現在では通常生存競争と訳される)、そして後の版ではウォレスの提言を受け入れ自然選択をわかりやすく説明する語としてハーバート・スペンサーの適者生存を使用した(生存競争や適者生存は誤解を招きやすいために近年では用いられない)。これらの要因によって環境に適応した形質を獲得した種が分岐し、多様な種が生じると説明した。
■ダーウィンの説の重要な部分は、自然淘汰(自然選択)説と呼ばれるものである。それは以下のような形で説明される。
■生物がもつ性質は、同種であっても個体間に違いがあり、そのうちの一部は親から子に伝えられたものである。
■環境収容力は常に生物の繁殖力よりも小さい。そのため、生まれた子のすべてが生存・繁殖することはなく、性質の違いに応じて次世代に子を残す期待値に差が生じる。つまり有利な形質を持ったものがより多くの子を残す。
■それが保存され蓄積されることによって進化が起こる。
■生物の地理的分布や、異性間に起きる選択である性選択についても説明した。
■当時は DNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異の原因や遺伝についてはうまく説明できなかった。ダーウィンの遺伝理論はパンジェネシス説と呼ばれ、獲得形質の遺伝や当時主流であった融合遺伝を認めていた。また発生と進化を明確に区別していなかった。
■変異はランダムな物であると考えた。ここで言うランダムとは「規則性が全く無い」と言う意味ではない。ダーウィンは変異について確実なことを述べられるような知識を何も持っていなかった。変異がランダムであるとは、変異それ自体には進化の方向性を決める力が内在しないと言う意味である。
■進化を進歩とは違うものだと認識し、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとした。
■自然は跳躍しない」という言葉で、進化は漸進的であると主張した。これは「進化は一定速度で進む」事を意味しない。文字通り跳躍的な進化を否定するのみである。進化は小さな遺伝的変異の蓄積によって起きる。その結果として、体節数の変化のような大きな形態的変化が起きる可能性はあるが、目や脳などが一世代でできることはない。
■一つあるいは少数の祖先型生物から全生物が誕生した。そして一つの種が二つに分かれる過程を種分化と呼んだが、種分化のメカニズムに関しては深く追求しなかった。
ダーウィンは、進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのである。
ウォレスは性選択説を認めず非適応的と思われる形質(例えばクジャクの羽)も自然選択で説明しようと試みたが、これは現在の優良遺伝子説に近い説明であった。またウォレスは人間の高い知性や精神的能力は神のような超自然的存在の干渉によるものだと考えた。